2011年1月号 会員2欄

しゃぼん玉くだけるときの冷たさを頬に受ければ七色の風 *1

夕暮れのメリーゴーラウンド浮き沈む永久に届かぬことばを乗せて

水槽の中のマグロを観るように紫煙を吐きだす男らをみる

鉄橋の真下に立ちて眼閉じれば我が身の内を列車抜けゆく

粉薬まきしごとくに黒土へ金木犀は花を散らしぬ

ペンキ屋のシンナーの香をくぐるとき少年たちの声はとぎれる

*1:第3回ネット歌会に発表した「しゃぼん玉くだけるときの冷たさを頬に受く 秋はわかれの季節」を改作。2010年11月14日、ネット歌会ウェブサイトにて作品発表

石川啄木 東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる 『一握の砂』

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたはむる

石川啄木『一握の砂』

《歌意》 東海(とうかい)の小島(こじま)に小さな磯(いそ)がある。その磯の中にある砂地に腰をおろして、私は泣きながら蟹(かに)とたわむれている。

《解説》 磯には、黒っぽい大きな岩がいくつも並んでいる。その岩と岩の間にわずかな砂地があり、岩の黒との対比で砂の白さが際立っている。その砂地に独りの男がうずくまり、蟹をつついている。蟹は興奮して両方の鋏を振り上げているはずだ。「泣きぬれて」というぐらいだから、男は流した涙で、頬はもちろん、着物のえりぐらいは濡らしているかもしれない。あるいは、涙の粒のいくつかは、蟹の甲羅にも落ちただろうか。

 この歌の重要なポイントに視線の動きがある。「東海」という大きな空間を提示するところから始まって、小島→磯→白砂→われ、という順に空間が狭まっていく。空間が急速に縮小している印象を受けるとしたら、啄木が、3句目までに3つの格助詞「の」を使って、空間の移動、視線の移動にスピード感を生み出しているからだ。

 ちなみに「東海」には、東の方の海のほかに、日本国という意味がある。ここで啄木がどちらの意味で使っているかは確定できないが、いずれにしても広大な空間を指していることにかわりはない。そこから一気にうずくまる身体にまで空間が縮小していく感覚はダイナミックであり、また映像的でもある。視線の動きで言えば、はるか上空から海を俯瞰していたカメラが、蟹に触れようとする男へと超高速でズームしていく運動が表現されていることになる。こうした視線の操作は、日本の海辺に一人泣いている「われ」にスポットライトを当てて浮かび上がらせるような効果を挙げている。

 ここに詠われている「東海の小島」はどこの島のことなのだろうか。私は、この歌を読んだ当時、名古屋に下宿して大学生活を送っていたため、「東海の小島」を愛知県の知多半島あたりに浮かぶ島だと解釈していた。しかし、これはまったく根拠のない思い込みだった。啄木は、明治40年(1907年)に故郷の岩手県渋民村を出て、函館市に移住した。「東海の小島」は、その当時啄木が友人と訪れた函館の大森浜を念頭に置いて詠われたというのが定説らしい(参考:岩城之徳『石川啄木』おうふう)。

 この作品は、啄木の最初の歌集『一握の砂』の冒頭に収録された一首である。歌集は「我を愛する歌」と題された連作から始まる。つまり歌集の最初に、「われを見よ、そして愛せよ」とばかりに、泣きじゃくる自画像を置いてはばからない啄木のメンタリティーと戦略性は、やはり並ではないと思う。

 ここで詠われているのは、端的に言ってしまえば、男(啄木)が海辺で一人泣いている場面にすぎない。しかし、その情けない自画像を、自己愛のまなざしで包みつつ、映像的とも言える手法による過剰な演出で描ききったところに、啄木の本領が発揮されていると言える。

啄木の短歌「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢっと手を見る」については、こちらのページに解説を記した。

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一握の砂 (朝日文庫)
新編 啄木歌集 (岩波文庫)
石川啄木歌文集 (講談社文芸文庫)
石川啄木 (明治の文学)

短歌人10月号、11月号、12月号

2010年12月号 会員2欄

秋空にスカイツリーの輝けばどこまで行っても逃れられない

知らぬまにベンチに手すりが生えていていつもの彼の姿は見えず

捨てられしガラクタばかりが美しき影をひろげる夕立ちののち

ビルとビルの谷間に残る一軒家 黄昏どきにカレーは香る

煮魚の目玉は唇(くち)をこぼれ落ち白磁の皿をちいさく鳴らす

はるかなる海さわだちて愛国の気分はふくらみたちまちしぼむ


2010年11月号 会員2欄

麦藁の帽子は波にのまれたり 噂より知る友の出奔

かつて逝きし飛行機乗りの御霊ゆえ飛行機雲はかくはかなしや

猫あまたはべる路地抜け会いに行く 放火魔のごと足を忍ばせ

汝の手より奪いし杏飴食めば我が舌先は果肉に触れる

夕立が来たりて濡らす物干しに吊られしままの水泳帽を

ぬばたまの闇に列なす老婆らはズンドコ節にのせて手を上ぐ


2010年10月号 会員2欄

球場の芝のみどりに輝けば白雲の影ゆっくり過る

砂浜に斜塔のごとく突き出してペットボトルは光を放つ

高波の真白き泡へと変わるとき浜辺の砂らささやきあえる

黒砂に半ば埋もれし貝殻をいくさ人らの骨かと思う

沖を指し遠ざかる君の水泳帽 波頭に隠れまたあらわれる

ポケットのなかより出でし貝殻は我が掌にもろくくずれる

短歌人7月号、8月号、9月号

2010年9月号 会員2欄

砂にまみれ二つの穴の穿たれし丸太の姿の鯔(ぼら)のころがる

眠れざる床に聞こゆる風鈴の音のようよう高くなるらし

夏風にみどりわななく森の奥へ無人のカートぞ走り去りける
*1

橋の下に鳴るサックスを振り切って自転車をこぐ独りになりたし

脱臼の骨身をさらす雨傘を勤め人らの靴は越えゆく


2010年8月号 会員2欄

尿(しと)の香の鋭き五月の厩舎よりひときわ高き嘶(いなな)き聞こゆ

タンカーはまだそこにいる初夏の海 ほんとうに欲しい知らせは来ない

引き潮にその身をさらす二輪車の細きかたちは泥に包まれ

その胸にゲバラの肖像(かお)をまといしがフライドポテトに指を光らす

うすくとも鋭き葉持つ芝に伏し私の縁を確かめている

ゆるゆると宙を流れる蜘蛛(くも)の糸 風の形に光漂う


2010年7月号 会員2欄

公園の丸い蛇口の先っぽに空色の水あふれだしてる

君からのメール届けばポケットの中にて跳ねる一匹の鮎*2

若き母らバギーを押して並びゆくそれが何さという表情(かお)をして

一〇五円の値札をはがせば歌集には癒えることなき痣の残りぬ

配達のバイクが過(よ)ぎる窓の外 子の指は開きしずかに閉じる

*1:歌人第2回ネット歌会に提出した「初夏の緑したたる森奥へ無人のカートぞ走り去りぬる」を改稿。作者名発表は2010年7月26日

*2:初出は短歌人の第1回ネット歌会。 詠草発表は2010年4月6日、作者名発表は、2010年4月26日

短歌人2010年4月号、5月号、6月号

2010年6月号 会員2欄

油の膜に包まれて立つ動輪は光を放ち微動だにせず

幼子らたちまち黙す 春風を切り裂き昇る汽笛の叫び

果てしなく反復される律動の逞しさもてさらわれていく

朝もやにまどろむ亜細亜の田園を駆け抜けにけり黒き近代

石炭の淡き移り香漂いぬ 幼子の髪風になびけば


2010年5月号 会員2欄

死をコピペしたかのように墓石は陽の射す丘に正しく並ぶ

岩肌に刻まれた名が朱に染まる 家とはついに逃れがたき影

飯粒に海苔つややかなる湿り帯ぶ処女の翳りの濡れそぼつごと

妻を指しママと呟く吾子すでにことばの沼の汀に立てり

地下鉄のレールを越ゆる溝鼠 銀の背を揺がせて消ゆ


2010年4月号 会員2欄

草の上に冬日を浴びて黒々とタイヤのチューブは臓器にも似て

西日差す書棚にありて触れられぬ歌集のごとき姉の独り身

一粒のパン屑めぐり群れる鯉 空をむなしく食む音ぞする

タイヤもて踏みしだかれてぺらぺらの犬の骸へ雪は降り積む

放屁せど聴くもののなき部屋にいて清浄機赤ランプ灯しぬ

木枯らしに車輪の回る音響き結露流るる窓に額寄す

短歌人2010年2月号、3月号

2010年3月号 会員2欄

プルトップ引き抜いた指にまざまざと鍬形虫の角もいだ夏

身震いし雫を切れば窓の外 窓拭きの男うす笑いする

一日の仕事を終えてラーメンと牛丼の香る駅に降り立つ

飛び散った檸檬の酸はゆっくりと蝕んでいくワイシャツの襟を

眠れない夜ひとり飲む酒の酔い両頬をそろと撫でていくごと

亡き祖父の手垢にまみれしマルクスを開きてセブンスターの香を嗅ぐ


2010年2月号*1 会員2欄

エアコンをはずせば壁の白くして水着の跡のごとなまなまし

夕暮れの図書館に長き影落ちて恐竜図鑑色褪せている

公園のベンチの上に立っている歯形の深き紙コップひとつ

幼子の額に落ちし花びらを口に含めば乳の香ぞする

自転車を盗まれた日の夕暮れに頭上かすめるコウモリの群れ

地震の後引き出し奥の自動巻きぬばたまの闇を刻み始むる

*1:「短歌人」にはじめての詠草が掲載された