『家出のすすめ』 寺山修司

家出のすすめ 寺山修司

ネットでは、家出人用の掲示板があって、そこでは家出した少女らが、宿と食事を提供してくれる相手を求めるメッセージを書き込んでいる。家出少女を受け入れるのは、たいてい男で、「神」と呼ばれる。現代における家出の理由は様々だろうが、家庭が崩壊して、居場所を失ったため、あるいは虐待する親から逃れるためのいずれかが当てはまるのではないだろうか。つまり家庭の機能不全が少年少女の家出の引き起こしているのだ。

寺山修司もいわば機能不全を起こした家庭に生まれた。父を戦争で失い、母は遠く離れた場所で「酌婦」をしていた。寺山は親戚の家に預けられ、母は仕送りをした。一方で、二人で暮らしていたときの母は幼い修司にしばしば暴力を振るった。

その寺山が、『家出のすすめ』を出版して以降、何人もの家出人が寺山の家を訪問し、そのまま住み付くケースが増えたという。その後、寺山は、劇団を立ち上げて、家出人らを舞台の役者やスタッフとして起用したようだ。現代風に言えば、寺山は当時の家出人らの「神」だったことになる。

寺山がこの本で繰り返し伝えようとしたのは、自由を拘束するような常識を疑う精神だ。しかし、常識は、当たり前のこととして信じてしまっているのでなかなか意識しにくい。寺山が、本書で採用したのは、童謡や歌謡曲、漫画、便所の落書きなどのサブカルチャーの分析を通して、読者の中に根を下ろす悪しき常識を浮かび上がらせる戦略だ。

たとえば、第一章の「家出のすすめ」では、家の観念を解体し、家に拘束される人生の虚しさを強調する。そこで取り上げられる作品の1つに漫画「サザエさん」がある。寺山は、サザエとマスオの性生活を読み解きながら、家という観念の権力性を浮かび上がらせる。サザエがネグリジェではなく、パジャマで寝ること、サザエとマスオが布団を並べて寝る描写がほとんど無いことなどを例に引きながら、婿養子のマスオの性欲は磯野家によって去勢されかけていると結論付ける。さらに寺山は、マスオの性的不満が離婚に発展しないと指摘し、作品の底に流れる「何事も変わってはいないし、変わる必要がないのだ」という保守イデオロギーを暴き出す。

このサザエさんについての文章は、後に1990年代に謎本ブームを起こした『磯野家の謎』をはじめとした一連のサザエさん関連書籍の先駆とも言える内容であり、寺山の先見性をも証明している。大衆文化や風俗現象から、それらの底に潜んでいる時代の潮流や意識の変化を掬い上げる寺山の手法は鮮やかだ。

家出をすすめることで、寺山は、家という観念や親から教えられるままに受け入れてきた常識や道徳を疑うことを訴える。それによって、寺山が目指すのは、個人の自由と可能性を奪う常識を解体すること、そうした常識を育てる土壌である家から解放されることである。なぜなら、寺山は家出こそが社会変革の起点になりうると考えているからだ。

年譜によると、寺山は1963年に『現代の青春論』(三一書房)を出版。この『現代の青春論』を改題して出版されたのが『家出のすすめ』である。本書が出版されたのは寺山が27歳のときで、それまでに、2冊の歌集『空には本』『血と麦』や、詩集『はだしの恋』などの著作はあったが、エッセイ集としては、寺山の最も早い時期の著作である。若書きゆえの粗さや未熟さを感じることもあるが、後に演劇や評論など多方面に展開される才能のきらめきを、いたるところに発見できるはずだ。

『家出のすすめ』目次

第1章 家出のすすめ
第2章 悪徳のすすめ
第3章 反俗のすすめ
第4章 自立のすすめ